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1970年代洋楽ロックのミュージックシーン パート2

1975年洋楽ロックのミュージックシーン

70年代前半はシンガーソングライター、グラムロック、カントリーなど
当時のロック界は本来のロックンロールが希薄となっていた、
そこに現れたのがブルース・スプリングスティーンだ。
とくに75年リリースの「明日なき暴走」はタイム誌やニューズウィークの表紙を飾るという
前代未聞の事件がおきたのだ、それは伝説にもなっている、
そして圧倒的なライブパフォーマンスは彼を一気に英雄にのし上げたのだ、
このアルバムに収録されている古典的傑作は過去のロックの神髄が凝縮されている。

また、この年はロック側から出てきたフュージョンの傑作
ジェフ・ベックの「ブロウ・バイ・ブロウ」がヒット、
プロデューサーにビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンを起用した。
フュージョンはポップで音楽的具体性をまとまったジャージーな表現として登場したのだが、
それゆえロックとの親和性を持たないはずがなく、
シンガーソングライターのバック奏者と関係が深い。
その代表格がスティーリー・ダンやイアン・デューリーだ。

また、ロックはいつの時代もブラックミュージックを横目に進化してきたが、
両方が最も積極的に融合したのがこのころではないだろうか、
なかでもロッド・スチュアートやビージーズが代表格。
ロッド・スチュアートの「アトランティック・クロッシング」
ビージーズの「ジャイブ・トーキン」などがヒット。
ソウル路線にのった彼らはここからディスコ黄金時代へと進む。
またデビットボウイもこの路線にのり「ヤング・アメリカンズ」という傑作をだした。
アメリカン・ロックへ目を向けると、イーグルスがソウル風味の「のろわれた夜」で
全米NO.1を取りウェストコーストロックが躍進、のちのAORへと繋がっていった。

1976年洋楽ロックのミュージックシーン

このころよりパンクムーブメントが勃発し始める。その代表格がラモーンズだ、
彼らは、60年代のロックに憧れそれを拳で叩きつけるダウンストロークで演奏、
ひび割れ気味のアンプの音と猛烈なスピードを爆発したサウンドで
これからの時代を生きていくロックンロールとして新しい息を吹き込んだ、
2月にリリースされたデビュー作「ラモーンズの激情」は
アメリカではヒットしなかったがUKではツアーを行うとピストルズやクラッシュが顔を出し
パンクムーブメント勃発の導火線的役割をはたした。ラモーンズはミュージックシーンに
大きな影響を与えなかったが彼ら抜きにはその後のパンクの歴史も存在しなかった。

アメリカのパンクムーブメントはCBGBというNYのライブハウスから火が付いた。元々は
オーナーがカントリーやブルースをやるつもりであったが、それらアーティストはやってこず
パンク系のバンドがやってきた。そこにラモーンズ ブロンディ
パティ・スミス トーキング・ヘッズ、ハートブレイカーズらが出入りした。

また、この年に出たピーター・フランプトンの2枚組
「フランプトン・カムズ・アライブ」が大ヒット、
全米チャート10週にわたり1位を獲得、今日にまでに600万枚以上が売れている、
いわいるメガセールスを記録するアルバムが出るようになる、
それまでは数十万枚がせいぜいであったが続出するようになる。
その後イーグルス、フリードウッドマックらが歴史的売り上げを記録、
また、ピンクフロイドが歴史的ロングセラーアルバムとなる
「狂気」をリリース、73年から88年までチャートにとどまる。
76年はパンクの胎動期であったが、もうひとつメガセールス始まりという時期であった。

1977年洋楽ロックのミュージックシーン

セックス・ピストルズを筆頭にパンク・ムーブメントが最高潮を迎えたのがこの年。
唯一のアルバム「勝手にしやがれ」をリリースしたが、それ以外でトラブル続きであった、
契約やイベント、逮捕などである。あらゆる権威につばを吐き
曲が放送禁止になったりライブ会場から締め出されたりと叩かれまくった
しかし、若者からは代弁者として圧倒的な支持を獲得していた。
シングル「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン」は全英1位の売り上げを達成、
大手チェーンもレコードを販売拒否したがその勢いを阻止することはできず、
全英制覇をなしとげた。

また、クラッシュ、ジャム、エルビス・コステロ、などがデビューアルバムを発表し、
ジェネレーションX、バスコックス、シャム69など次々と新たなバンドが登場していった、
パンクがそれまでのムーブメントと違っていたのは、誰にでもできるということだ。
下手でも楽器を手にすればバンドが結成できたからこそ短期間に発展していった、
しかもサウンドは個性をいかせばよかった、そしてバンド同士の連帯感があり
互いをライバルと思いながらも、レッド・ツェッペリンやピンクフロイドなどの
スーパースターにつばをはいていた。
クラッシュがビートルズもストーンズもいらないと歌っていたのも有名だ。

一方アメリカで音楽界を最も沸かせていたのは、
映画サントラの「サタデーナイトフィーバー」
これを筆頭としたのがディスコ、アリーナ・ロックであった。
映画もロッキーやスターウォーズなどがヒット
ベトナム戦争によって受けた重々しい空気から、
都会的な華やかさが浸透し消費社会へと変わっていった。

1978年洋楽ロックのミュージックシーン

セックス・ピストルズが解散しポストパンクと言われたのが、ジョイ・ディビジョンだ。
彼らはパンクを土台にイギーポップらの影響を受けデビットボウイ、ロキシー・ミュージック
ドアーズらの要素をいれパンクの枠を超えたサウンドで自主制作EP盤でデビュー、
パンクの攻撃性とシンセの効果を融合させた独創的な音世界と内省的な詩がマッチし
79年4月にメジャーデビュー「アンノウン・プレジャーズ」がヒットし高い評価を受ける。

また、78年ピストルズがの解散を機にパンクが下火になっていくと、
そこから一気に新世代の音楽が台頭してくる、
ポリスがパンクスタイルにレゲエを取り入れ、
ゲイリー・ニューマンはシンセサイザーを前面に押したサウンドを披露、
アメリカからは同じコスチュームを着たディーボやB52sも登場、
彼らに共通するのは独自のスタイルを持ちロック以外のジャンルに接近して
融合させた音楽を作り上げていく。

そして、70年代はたくさんのライブアルバムがヒット、
チープ・トリックやボブ・ディランのアット・武道館がヒット、
武道館の名が世界に知れていく。
ザ・バンドの解散コンサートを収めたラスト・ワルツもライブアルバムブームの頂点となる、
これは映像と音楽の同時記録したものでのちのMTVとつながっていく。
ライブアルバムがヒットしていく背景にはPAや録音技術の進化がある。
60年代には音質の点でまだまだ話にならなかった。

1979年洋楽ロックのミュージックシーン

パンクが都市部の敏感な音楽ファンにしか受け入れられなかったアメリカでは、
パワーポップ系のアーティストが大きくクローズアップされていく。
イギリスのパンク勢はセールスが低迷、メロディアスなエルビスコステロ ポリス
ジョー・ジャクソンらのニュー・ウェイブ勢が好セールスを記録した。
アメリカでヒットしていなかったチープ・トリックが日本で出した
ライブアルバムがアメリカで紹介されるとチャート4位まで上がるヒット
それを機に新作も6位にまで上がるヒットを記録した、
また、79年最大のヒットを記録したのはザ・ナックのマイ・シャローナと
アルバム「ゲット・ザ・ナック」6週に渡ってNO.1になる大ヒット。

また、パンクブームを境にロックは単なる受容するものではなく、
自ら発信するものとして小資本のインディー・レーベルがイギリスで次々立ち上がっていく
その立役者、2トーンレーベル所属のスペシャルズがヒットを飛ばす、
その2トーンレーベルからも幾組ものアーティストが生まれている。

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